おはようございます。千葉市(有美)です。
いよいよ「明るい介護」最終回です。
「24回明るい介護〜入所〜」
2021年10月
すったもんだして義母の入所日が10月に決まった。
夫は29日(金)のお昼に実家へ入り、義母にお昼ご飯を食べさせテレビ等の買い出しに。
私もその日の夕方に実家に着き、義母に夕飯の用意をする。
義妹のネット注文した5段タンスが組み立てでなかなか大変。夫は翌日もタンス組み立ての続き。
その間に私はテレビ台を組み立て。電動ドライバーの有り難みを染み染み感じながら作業をすすめる。
義妹は…翌朝1便で実家入り。
30日午前
ケアマネジャーさんのところにご挨拶方方、夫と朝一に着いた義妹も一緒に声かけて3人で伺った。
ケアマネジャーさんも私も「この日をどんなに待ったことか…」お互いあえて言葉には
しないけれど本当に大変だった。
私は結局のところ遠方にいて、間近に義母の様子は見ることが出来ない。全てにおいてカメラアプリ動画を通して
スマホの小さな画面で見るしかない。
顔色や様子も把握するには難しい。側にいれば、何とでもできたものを「介護士サービス」という
外部の人の手を借りてやっとこの生活がギリギリ出来ていた。
その外部の手は、ケアマネジャーだったり、訪問介護スタッフだったり、デイサービススタッフ、
訪問診療スタッフ、訪問看護スタッフ、また配食のスタッフだったりと、多数の人が義母の家を訪問して介護をしてくれた。
ケアマネジャーさんの「お嫁さんが一番細かく様子観察してくれ、情報共有してくれたから、この在宅ケアは成り立ったんですよ」と
行ってくれた途端、涙が溢れてしまい奇しくも義妹の前で泣けてしまった。
ここまで来れば後はもう少し!という安堵感だったのかもしれません。
家に戻り、お昼ご飯に近所のパン屋さんに義母と買い物してくるよう、義妹をお使いに出す。
この間に、衣類等へ名前をマジックでタグに書き込んだり、使い慣れたお茶碗、ブラシ、
詩吟の教本、家族揃って歌合戦のタテ等々、家にある義母の私物を車のトランクに積む。
お使いから帰ってきた義母とお昼ご飯にみんなで美味しいパンを食べ、少ししてから出かける準備をする。
「ちょっとお出かけするか〜!はーい、上着来て皆んな〜!」と、「皆んな」に声かけすることで、
義母は「皆んなで買い物でも行くのか?」はたまた、いつも気にしてる「もう一軒の大麻の家にでも様子見に行くのか?」と
疑うこともなく、上衣を着て車に乗り込む。
グループホームまで車で20分。
いつものスーパーまでの道じゃない…、もう一軒の家の方向でもない…
不穏になることを想定して、ここで「義母と祖父母の琵琶とお琴を演奏してるCD」を車の中でかける。
緊迫の中、「これ誰弾いてるのー?えーママとおじいちゃんが2人で演奏してるのー?!」と
予定通りの声かけ、そして予想通りの「そうなのよ〜」義母の返事。義母はとても上機嫌。
自分と祖父が大好きな義母。誉めどころは押さえてる嫁。
夫は運転に集中。義妹は役に立たず無言。
私はすぐそこに見えてるゴールへ向けて頑張るしかない。
私は、車中、喋り倒してホームへ到着。
「はいはーい、降りて〜!ちょっとママ付き合ってー、ここ〇〇(義妹の名前)がお世話になってるところだから、
ご挨拶して行くからさー。と、疑いもなくホームの中へ。
ホーム長さんとも段取り通り、義妹と義母をホーム内へ案内してもらってる間に荷物を搬入しセット、書類等記入。
ホームリビングでお茶を出され談笑。何を宥めてるのか?説明に理解してしてくれているのか
謎だけれど、義妹は義母の隣に座り、私達が帰ることを含めて説明しているようだ。
「本格的な冬になる前に、ストーブ取り替えて、ペチカも一度外して大掛かりの工事するから、
1週間ここでお泊まりしてて、工事終わったら私等は、また工事費の支払いもあるから迎えにここに来るから一緒に家に戻ろう」
そんな理由を作り、1ヶ月前から、事あるごとに「工事しなきゃねー」と義母に声かけしてきた。
でも、当日は皆んな帰るのに、自分だけ残されるのだもの、そりゃ不安になる。
私と夫は、あとはスタッフに任せて余計な声かけせず、帰ろうと玄関に行って義妹を待っていた。
はい、待てど暮らせど、義妹は玄関の方へ来る様子がない。
絶対、半泣きしてる…。あれだけ義母の前で泣くなら来るな!って言ったはずなのに…。
仕方なしに、義母の席に戻り隣に座ってる義妹を無理やり退かし代わりに私が着席する。
「どうしたのー?ママ、工事終わったら迎えに来るから待っていて。私たちお仕事あるから『一度』東京に戻らないといけないの。今度の週末くるからー!」
「私も帰る、帰らないと…」
出た出た…そう来るよね。
と、ここで仕方なしに「義母を残していく家族の寂しさ」をテーマに演説する私。
突如としてイスから立ち上がり「皆さ〜ん!私達どうしても一度仕事があるので東京に戻らなきゃいけないんです!うちの大事な母を宜しくお願いします!
ここでお泊まりするのは、母も不安でしょうけれど、ストーブ早く直したいし…こんな良いお姑さんいないんです!
こんな優しい自慢のお姑さんです。どうぞ宜しくお願いします!」と、
選挙活動の如く、ホームにお住まいの皆さんに大演説終了。
当然、義母は「いやだ〜有美ちゃん恥ずかしいじゃないの〜もう〜(照れる)仕事あるんでしょ、早く行きなさい飛行機遅れるから〜」と
すんなり私達を送り出す、お利口さんのお姑さんを演じてくれた。
演じてるうちに退散です。って立ち上がったら、真横で義妹が目を赤くしてグズグズしてる。
背中を2、3回小突いてやっと玄関に向かう義妹。
「じゃーねーママ〜!行ってきまーす!」と、ホームへの送り完了。
流石、私。任務完了。
その夜、3人で居酒屋で夕食を食べてると、また泣く、さらに泣く義妹。そこへ義母から電話。
もちろん、さっきの「自慢のお姑さん」は消え失せ、「私は帰りたい、何で私はここにいるの?」と不穏モード。
こうやって、「帰りたい」電話を繰り返し、入所して1週間しないで、ホームを離設。簡単にいえば脱走。
どれだけ動け、知恵が回るかスタッフも途中から見守りしていたら、非常口の二重の鍵を外して部屋から靴を持ってきて、コートを着て、
大通りのバス停まで行き、通りがかりの人に、自宅への帰り道にを聞いていたようだ。ここでホームスタッフさんが「〇〇さん(義母の名前)」と
声かけし、義母は「何で私の名前知ってるの?」と聞き返した。「〇〇さんは、この町では有名な詩吟の先生ではないですか!
知らない人はいませんよ!息子さんに連絡取りますから一度、暖かいところでお茶でも飲んでお待ちになってはどうですか?」と
機転の効いた声かけに義母はすんなりホームへ戻った。
「先生」この言葉は義母にとって魔法の言葉。
義母は持ち上げられた分、上機嫌になる。
「詩吟の先生」「全国大会出場」等々
認知症の義母に残ったのは顕著に見られる「そもそもの性格」「先生と言われてきたプライド」等。
私は、ノート半分量に義母の情報を書いてホームに渡してあった。早くホームに慣れる為のコミュニケーションツールとして、
義母の生い立ちや喜ぶツボ等、性格、拘り、誇り等書き留めたノートだ。
もちろんそのノートには「『先生』の言葉に弱い」と書いてある。
上手に使ってくれてよかった。
1週間が過ぎ、2週間が過ぎ、もう直ぐ1ヶ月が経とうとしている。
不穏モードはまだあるけれど、ホーム長さんは時々、動画で義母の様子を送ってくれる。
その動画には、いつものニットのワンピース部屋着を着て、元気にスタッフさんとカボチャの煮付けを作ってる様子が映っている。
お出かけ着でないその姿は「ココが自分のお家と感じている証拠」。もちろん、不穏にならなくなったわけでもなく、
心の「不穏」と「安心」を行ったり来たりすることは、これからもしばらく続く。
それでも、いつもの部屋着を着ている時は「離設」の気持ちが失せてる時。そんな姿が少しずつ長くなり、
「不穏」より「安心」が義母の心の中で勝るようになることを願うしかない。
認知症は、誰でもなり得る病気の一つ。誰でも老いるときはくる。健康に歳を重ねることが1番いいのだろうと思うけれど、
自分の思いとは別に病気になることだってある。
少しでも、「寄り添える介護」をと考えていたけれど、教科書通りにはいかない。
ましてや、介護される本人だけならまだしも、本人を取り巻く家族もいる。ましてや、「嫁」という立場。
実娘のやり方を尊重すべきだっただろうか?尊重したら絶対、あの家危険すぎて、義母は命を落とすことも予測されたろうな。
いろんな思いで私は私のやれることを在宅ケアにおいては協力してきたつもりだ。
放り出すのも簡単だったのかもしれないけれど、どんなに過去いろいろあって好きじゃない姑だろうと、
夫をこの世に産み出したくれた人だと思うと、背中を向けることは出来なかった。
もちろん、このブログを読んでいただいてる方には、「義妹」を虐めすぎていないか?と思われた方もいるかもしれない。
捉え方は人それぞれですが、義妹が望んだ義母の「認知症、独居生活」を守るためには、厳しいことを言うしかなかった。
認知症は「理想」だけでは上手くケアが出来ない。仕事でする「介護」と比べ、いろんなしがらみが交わる家族の介護は、
これ以上ない、私にとっての良い経験となりました。
誰かにいいように書いたつもりもなく、誰かを貶めるつもりもなく「私が今回の介護に感じたこと」を素直に書き綴った介護日記でした。
長々とお付き合い下さいましてありがとうございました。
写真は
飛行機からの津軽海峡あたり
珍しくこのコース
そして青空
毎回、飛行機乗る度に
「いつまで続くのかなこの帰省」って思ったことだろうか。
あっ、空になった家…今度は介護帰省でなく、
片付け帰省が始まるんだった…